『丹後国風土記』によると、「伊邪那岐命が天界と下界を結ぶために、梯子を作って立てておいたが、それが海上に倒れ、そのまま一本の細長い陸地になった」との記述があります。それが天橋立とされています。『天のはしご天の橋立』は、日本の神話に登場する土地形成や由来の物語です。
今回は、『天のはしご天の橋立』のあらすじと内容解説、感想、おすすめ絵本などをご紹介します!
概要
『天のはしご天の橋立』は、二つのお話を巧みに重ねて、一つのお話のまとまりとしています。
『天のはしご』とされる序盤と終盤は、鎌倉時代中期の建長4年(1252年)に成立したとされる教訓説話集『十訓抄』の一節「大江山の歌」です。
そして、『天の橋立』とされる中盤は、古くは『古事記』や『日本書紀』に見いだされ、また日本各地に伝わる『風土記』や『神社縁起』のなかに多く見いだされる、日本の国土創世に関する“国生み”の舞台である「日本神話における天橋立」です。
『天のはしご天の橋立』の舞台は、近畿地方に位置する京都府の観光名所で、日本三景の一つである天橋立です。
天橋立は、全長約3.2km、幅20~170kmの砂嘴でできており、道には5000本を超える松の木が植えられた、白砂青松の大変に美しい景色を楽しむことができる地として知られ、毎年200万人を超えるたくさんの観光客が訪れます。
ちなみに日本三景とは、宮城県の松島、京都府の天橋立、広島県の宮島(厳島)の三箇所の景勝地のことです。
※尚、現時点では『天のはしご天の橋立』に関する絵本は存在しません。
『十訓抄 ([新編] 日本古典文学全集 51)』は、小学館から出版されています。上段に頭注、中段に原文、下段に現代語訳と、同一ページにすべてを配した読みやすい三段組みです。鎌倉時代の説話集ですが、若者向けに心得を書いたものなので、お話の面白さに加えて、現代にも通じるアイディアの宝庫です。日本人として、ぜひ読んでおきたい一冊です。 『京都の民話 ([新版]日本の民話 41)』は、未來社から出版されています。平安時代の朝廷から明治まで政治と文化の中心地としての歴史をもつ古都・京都市と、ひなびた山城・丹波・丹後の諸地方のみやびかさと、ひなと呼ばれる都から離れた田舎の同宿する「天のはしご天の橋立」などの民話56篇とわらべうたが収録されています。 『「天橋立学」への招待: “海の京都”の歴史と文化』は、法藏館から出版されています。世界遺産への登録に向けて、多分野の研究者による調査報告書に基づき、天橋立の深部へ多彩な視点から近づいています。天橋立の魅力を知るだけではなく、豊かな歴史像と将来像を深めることができ、謎多き“神のハシゴ”の実像に迫ることができる一冊です。あらすじ
平安時代中期、和泉式部が藤原保昌の妻として、丹後国に赴いていた頃のことです。
そのころ京の都で歌合わせがあり、そこに不在の和泉式部に代わって、娘の小式部内侍が歌合わせで和歌を詠む歌人として選ばれて出席しました。
その歌合わせの席で、中納言の藤原定頼がふざけて、
「お母さんに和歌を詠んでもらうため、丹後国に使わした人は帰って参りましたか。小式部内侍は、使いが帰ってくるのを、さぞかし待ち遠しくお思いのことでしょう」
と言いながら、小式部内侍の部屋の前を通り過ぎていこうとしました。
それは、
「お母さんの力を借りなければ、歌合わせで和歌を詠むことはできないでしょう」
という、定頼からの嫌味と感じるような表現でした。
小式部内侍は、御簾(すだれ)から半分ほど身を乗り出して、ほんの軽く定頼の直衣の袖を引っ張って、
「母からの文はありませんが、丹後国の天橋立については聞いております」
と答えました。
二人のやり取りを御簾の中で聞いていた帝が、天橋立の由来について、小式部内侍に語り始めました。
むかしむかし、まだ日本の島々が出来て間もない頃、空よりも高い天上の神の国から、神様たちは眼下に広がる日本列島をご覧になりながら、
「大変に美しい国だ」
と思っていました。
そのうち、神様たちは、地上に降りてみたいと思い始めました。そこで、神様たちは、地上に降りる道を作ってもらうため、道の神様のところへ向かいました。
しばらく道の神様は考え、
「本当に必要な時にだけ使うことを約束できるか」
という条件付きで、地上へと続く梯子の道をお作りになってくださいました。
神様たちは喜んで、梯子を伝い地上に降りていくと、そこには美しい娘たちが楽しそうに遊んでいました。
神様たちは娘たちとすぐに仲良くなって、何日も何日も飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをして過ごしました。
そんなある時、娘たちは、梯子を見ながら、
「私たちも神様の国へ行ってみたい」
と言いました。
娘たちからせがまれた神様たちは、これを断ることができず、
「道の神様に見つからないようにするため、声を出さないことを約束できるか」
という条件を付けて、内緒で娘たちを神様の国へ連れていくことにしました。
神様たちが娘たちを連れて梯子を登っていくと、梯子の上から眺める美しい島々の景色に、娘たちは興奮して、
「ウワー!とっても綺麗!」
と大声をあげて騒ぎ始めました。
すると、眠っていた道の神様が、その声を聞いて目を覚ましました。
怒った道の神様は、雷を落として、天地をつないでいた梯子を粉々に砕いてしまいました。
そして、その梯子の一部が、今の宮津湾に架かり、天橋立になったそうです。
帝のお話を聞いた小式部内侍は、
「不思議なお話だな~」
と思いながら、和歌を詠みました。
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」
と詠んで、定頼に返歌を求めました。
中納言の定頼は、小式部内侍の思いもかけぬ行動に驚いて、
「これはどういうことか。当意即妙に和歌を詠むことがあろうか、いや、あるはずがない」
とだけ言って、返歌もできず、ほんの軽く引っ張られていた直衣の袖を引き払って、お逃げになりました。
天橋立を巧みに詠みこんだ小式部内侍の和歌は、歌合わせの席で喝采を浴びました。
小式部内侍は、これ以後、歌詠みの世界で名声が高まりました。
和泉式部の血をひいた小式部内侍にとって、このようなことは、普通のことであり、当然の結果でもありますが、中納言の藤原定頼は、小式部内侍がこれほどの素晴らしい和歌を、すぐさま詠み返すことができるとは想像もしていなかったのでしょう。
解説
「天橋立」の成り立ちについて、『丹後国風土記』の逸文には、大変に興味深い伝承がみられます。
この逸文には、
日本をお生みになった、男神の伊邪那岐命が、女神の伊邪那美命の住む久志備の浜の北にある真名井原に、天上から通うために梯子を作られました。
イザナギは、この梯子を「天浮橋」と名づけ、天上と地上を往来しました。
ある日、地上に降りたイザナギが、うっかり一夜を過ごしてしまったうちに、天浮橋は地上に倒れてしまいました。
と記されています。
天浮橋は「天橋立」となり、天上の神々と地上の人間を結ぶ梯子は外れてしまいましたが、その後、神と人との絆はかえって強くなり、神仏を求めて白砂青松の不思議の道を行き来する人々が後を絶たなくなりました。
そして、天橋立は名勝・奇勝であると共に信仰の対象となり、周囲には成相寺や丹後国分寺、智恩寺、籠神社(元伊勢)など、古社や古刹が集中しています。
文人墨客も数多く訪れています。
百人一首では、
小式部内侍が、
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」
と詠い、
和泉式部は、
「橋立の 松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」
「神の代に 神の通いし 道なれや 雲井に続く 天橋立」
の歌を残しています。
江戸時代では、
与謝蕪村が、
「はし立や 松は月日の こぼれ種」
の句を残しています。
現代でも、
与謝野晶子が
「人おして 廻旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天橋立」
の歌を詠んでいます。
また、室町時代後期には雪舟により天橋立の鳥瞰画が描かれていて、「天橋立図」は国宝に指定されています。
この様に、天橋立は、人々をなぐさめる神の贈り物として、永遠に今の姿を保ち続けています。
ちなみに、天橋立は見る方向により、まったく違う景色となり、見る者を感動させます。そして、その眺望には、それぞれに呼び名が付いています。「飛龍観」「股のぞき観(斜め一文字)」「一字観」「雪舟観」が天橋立四大観と称され有名です。
感想
京都府の天橋立にある智恩寺は、文殊堂とも呼ばれ、本堂には知恵を授ける神様として知られる秘仏の文殊菩薩が祀られています。
智恩寺(切戸文殊)は、奈良県の安倍文殊院や山形県の大聖寺(亀岡文殊)と並んで、日本三大文殊として知られています。
さて、「三人寄れば文殊の知恵」という格言があります。
これは、「愚かなものでも三人集まって相談すれば文殊菩薩のようなよい知恵が出るものだ」という意味になります。
ところが、集団討議による意思決定は、個人の意思決定に比べて、複数の視点を考慮しなければならないため、決定内容がより冒険的な性格を帯び、危険な決定になる傾向があるといわれます。
つまり、集団で決定された意思や方針の質は、個人で考えたそれよりも劣ってしまうということです。
『天のはしご天の橋立』でも、神様たちが地上の人間たちから、「天上の世界を見たい」とせがまれるという、集団の意思決定によって梯子を登ることになりました。そして、結果として、梯子が粉々に砕け散ってしまいました。
個人主義にも集団主義にも、良い面と悪い面があります。だからこそ、この先、グローバル化が進む世界で生き残るためには、自分の意見を主張できることが重要となります。
自己を表現できるという行為は、個人主義でも集団主義でも欠かせない、とても貴重なスキルです。これからは、相手の意見を尊重しつつ、自分の意見や主張も伝えていくことが大切になるということです。
まんが日本昔ばなし
『天のはしご天の橋立』
放送日: 昭和52年(1977年)04月23日
放送回: 第0133話(0081 Bパート)
語り: 常田富士男・(市原悦子)
出典: 『京都の民話 (日本の民話 41)』 二反長半 (未來社)
演出: 高橋良輔
文芸: 沖島勲
美術: 本田幸雄
作画: 岩崎治彦
典型: 創世譚・由来譚
地域: 近畿地方(京都府)
最後に
今回は、『天のはしご天の橋立』のあらすじと内容解説、感想、おすすめ絵本などをご紹介しました。
天橋立という珍しい地形が、どのようにして形成されたかという、日本の神話に登場する土地形成や由来の物語が『天のはしご天の橋立』です。ぜひ触れてみてください!