昔話『芋ほり長者』のあらすじ・内容解説・感想|おすすめ絵本
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 むかしむかし、あるおとこさわ山芋やまいもについたつちみずあらながすと、黄金こがねいろつぶがキラキラとかがやきながらんだみずなかしずんでいきました――『いもほり長者ちょうじゃ』は、石川いしかわけんけんちょう所在しょざいである古都こと金沢かなざわ地名ちめい発祥はっしょうのおはなしです。

 今回こんかいは、『いもほり長者ちょうじゃ』のあらすじと内容ないよう解説かいせつ感想かんそう、おすすめ絵本えほんなどをご紹介しょうかいします!

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概要

 『いもほり長者ちょうじゃ』は『いも藤五郎とうごろう』ともばれ、石川いしかわけんけんちょう所在しょざいである古都こと金沢かなざわ名称めいしょう由来ゆらい物語ものがたりです。

 加賀かが藩士はんしにして郷土きょうど史家しかである富田とだ景周かげちかしるし、江戸えど時代じだい後期こうき寛政かんせい10ねん(1798ねん)に成立せいりつしたとされ、加賀かが能登のと越中えっちゅう三州さんしゆう古代こだいから江戸えど時代じだいにかけての地理ちり歴史れきししるしたろく三九さんじゅうきゅうかんおよ大著たいちょ越登賀えつとが三州さんしゆう』に、『いも藤五郎とうごろう』の伝説でんせつあわせて「文禄ぶんろくがんねんより尾山おやまあらためて金沢かなざわごうした」と記載きさいされたことで、現在げんざいむかしばなしなどで金沢かなざわ名称めいしょう由来ゆらいとしてかたがれています。

 ちなみに、金沢かなざわは、中部ちゅうぶ地方ちほうぞくする石川いしかわけんのほぼ中央ちゅうおう位置いちし、県内けんない人口じんこう最多さいたです。江戸えど時代じだい加賀かがはん前田まえだ膝元ひざもと城下じょうかまちとして、その広大こうだい領土りょうど豊富ほうふ財力ざいりょくと、文化ぶんかてき土壌どじょう最大さいだいげん活用かつようしたことで「加賀かが百万ひゃくまんごく」とばれました。

 かつてテレビで一大いちだいブームをつくった『まんが日本にっぽんむかしばなし』が、二見ふたみ書房しょぼうより二見ふたみサラ文庫ぶんことして刊行かんこう。『いもほり長者ちょうじゃ』のおはなしは、『まんが日本にっぽんむかしばなし だい22かん』のなか収録しゅうろくされています。

 オンデマンドばん石川いしかわけん民話みんわ (けんべつふるさとの民話みんわ)』は、偕成かいせいしゃから出版しゅっぱんされています。日本にほんさん名山めいざんひとつで神々かみがみやまばれ、信仰しんこうやまとしてふるくからおおくの人々ひとびとあいされている白山はくさん日本にほんかいおおきくし、さんぼううみかこまれた能登のと半島はんとう風情ふぜいがあり日本にほんさん名園めいえんひとつとしてをはせる兼六けんろくえんから、歴史れきしある建造けんぞうぶつ文化ぶんかいろのこまちみまで、加賀かがはん城下じょうかまちとしてさかえた古都こと金沢かなざわ。「イモほり藤五郎とうごろう」など、北國きたぐに舞台ぶたいはなひらいたむかしばなしが30ぺん収録しゅうろくされています。

 『加賀かが能登のと民話みんわ だいしゅう ([新版しんぱん]日本にっぽん民話みんわ 58)』は、未來社みらいしゃから出版しゅっぱんされています。加賀かが能登のとふるくからつたわり、まちむら古老ころうによってなお命脈めいみゃくたもっている民話みんわを、みなみ加賀かがきた加賀かがくち能登のとおく能登のとよっつの地域ちいきけて、「いも藤五郎とうごろう」など79へん収録しゅうろくしています。

あらすじ

 むかしむかし、加賀国の山科の里に、山芋を掘って暮らしている藤五郎という若者がおりました。

 藤五郎は大酒飲みであり、無欲で礼儀正しく、とても気の良い男だったので、山に入って山芋を掘り、村で売れた山芋はみんな酒に替えて飲んでしまい、余った山芋は村の衆にタダで配ってしまうので、底なしの貧乏暮らしでした。

 村の衆からは、
 「ありゃあ、頭がちと足りないんじゃろう」
と言われていましたが、藤五郎はまったく気にしていませんでした。

 ある日、そんな芋掘り藤五郎の家に、大和国の初瀬から、生玉方信という信心深い長者が、とても美しい娘を連れてやって来ました。

 芋掘りから帰って来た藤五郎に、
 「夢で観音様のお告げがあったので、娘の和子を嫁にしてほしい」
と長者は言いました。

 「そんな事を言われても、そりゃ無茶だ。見ての通り、オイラの家はこんなにも汚ねぇ。お前さまの娘さんような人が来るところじゃねぇ」
と藤五郎は断りましたが、
 「お黙りなさい!仮にもありがたい観音様のお引き合わせですぞ!」
と言って、長者は聞き入れず、娘をおいて帰ってしまいました。

 こうして和子と藤五郎は夫婦になりました。

 和子はたくさんの持参金を持って嫁いできましたが、藤五郎はその価値が分からなかったので、村の衆に分け与えてしまい、すっかりなくなってしまいました。

 和子はたいした働き者でしたが、もともとの貧乏暮しが二人になって、おまけに藤五郎はあいかわらずの酒好きで、暮らしはどうもこうもなりませんでした。

 暮らしは、藤五郎が掘った山芋と食料品の物々交換で、何とか成り立っていました。

 あまりに貧しい暮らしに、最初はとまどっていた和子も、そのうち貧乏にも慣れ、藤五郎と仲むつまじく暮らしていました。

 藤五郎は、村の衆にからかわれながらも、和子のありがたみをしみじみ感じておりました。

 そんなある日、娘の貧乏生活を見かねた大和国の実家から、砂金の入った袋を送ってきたのでした。

 和子は大喜びで、藤五郎に袋を渡し、
 「これだけあれば、お米だってお魚だって何でも買えますよ」
と言って、さっそく食べ物や着物の買い物を頼みました。

 藤五郎は、砂金の価値もわからないまま、砂金の袋を持って山を下りて買い物に出かけました。

 買い物に行く途中、藤五郎は通りかかった田んぼで雁の群れを見つけました。

 藤五郎は、
 「和子に食べさせてやろう」
と思い、捕ろうとしましたが、投げる石が見つかりませんでした。

 そこで、持っていた砂金の袋を投げつけました。ところが、砂金の袋は口が開いてバラバラになり、雁も逃げてしまいました。

 しかたなく、藤五郎は手ぶらで帰ってきました。

 手ぶらで帰ってきた藤五郎から訳を聞いて、和子は涙を流して嘆き悲しみ、
 「あれだけのお金なのに…どうしてこんな人のところに嫁いでしまったのだろう」
と情けなくなってしまい、和子は怒り出しました。

 藤五郎には、なぜ和子が怒るのか分かりませんでした。

 そして、
 「あんなもの、山へ行って山芋を掘るといっぱいくっついてくるんだがなぁ」
と平気な顔をして藤五郎は言いました。

 それを聞いた和子は、疑いつつも、半信半疑で藤五郎と一緒に山へ山芋掘りに出かけました。

 藤五郎に案内された場所で、和子は藤五郎と一緒になって山芋を掘りました。そして、掘った山芋を近くの泉で洗ったところ、清んだ水の中に黄金色の粒がキラキラと光るのが見えました。

 和子は藤五郎に、それが砂金であることを教え、その価値も説明しました。

 藤五郎と和子は、たちまち大金持ちになりました。

 しかし、二人は決して独り占めにはせず、貧しい人たちに分け与えたため、暮らしは少しも変わらず貧乏のままでした。

 それでも、二人は十分に幸せで、村の衆からは“芋掘り長者”と呼ばれて敬われました。

 それから、この藤五郎が山芋を洗った沢を「金洗沢」と呼び、いつの頃からか、これが縮まって「金沢」と呼ばれるようになりました。

 千年以上経った現在も、「石川県の金沢は藤五郎が開いた町」として、金沢の地名の由来であることから、藤五郎は金沢の多くの人たちから崇められています。

解説

 日本三名園の一つで、池泉回遊式庭園の兼六園は、石川県金沢市にあります。その兼六園の隣接地にある金澤神社の傍には、「金城霊澤」という泉があります。この泉には、金沢市の地名発祥伝説ゆかりの『芋掘り藤五郎』にまつわる伝説があります。

 金城霊澤のすぐ傍にある高札には、

 昔、芋掘藤五郎がこの泉で砂金を洗い「金洗沢」と呼ばれていた。これが金沢の地名の起りである。

と記されており、地元の人なら誰もが知っている有名なお話です。

 また、金沢近郊には、「三小牛山」と呼ばれる小高い山があります。この山の名の由来にも『芋掘り藤五郎』にまつわる伝説があります。

 

 安政2年(1855年)に加賀藩士の村上生庸が著した『三州名蹟志』や、加賀藩の郷土史家である森田柿園が明治時代に著した『加賀志徴』によると、

 芋掘藤五郎が、三頭の子牛を金で鋳造し、この山に埋めた。

と記されており、大変に興味深い説が伝わります。

 金沢市にある伏見寺も『芋掘り藤五郎』の伝承が残るお寺としても知られています。

 伏見寺の創建は不詳ですが、伝承によると、

・養老元年(717年)に芋掘藤五郎が寺院を建立したといわれ、本堂に安置されているご本尊の阿弥陀如来像は芋掘藤五郎が採掘した砂金で制作されました。
・像高4寸8分(22.1cm)の阿弥陀如来像を開眼供養したのが、行脚でたまたま金沢を訪れていた行基であったため、伏見寺は行基山伏見寺とも呼ばれています。
・伏見寺の境内には、芋掘藤五郎夫妻の木像やお墓があります。

などが伝わります。
 伏見寺のご本尊の阿弥陀如来像は、平安時代初期に制作された金銅仏の力作とされ、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されています。

 それから、金沢市南部の山科町には、芋堀藤五郎を祀る藤五郎神社が鎮座します。

 また、金沢市立泉野小学校三十年の歩みと地域発展の譜籍『いずみの』には、

 藤五郎神社の北東にある大乗寺の裏から西へ約180m進んだ所には、満願寺山古墳群があります。そこにある二王塚に藤五郎夫婦を葬った。また、二王塚を発掘の際に出土した剣などは、藤五郎ゆかりの伏見寺に保存されている。

と記されています。

感想

 瀬戸内寂聴は、「人間が幸せになるためには、生まれた時のように無欲無心になればいいです。でも、それができる人はめったにいません」と『今日を生きるための言葉』で記しています。

 仏教では、「心の働きがないことを“無心”という」と説いています。

 さて、何かに熱中したり、専念することを、読書三昧とか仕事三昧とか「○○三昧」と表現します。

 三昧には、「一つのことに打ち込む」といった、良い意味が含まれているように感じます。ところが、道楽三昧や温泉三昧など、周囲からの制約を無視して、勝手放題にふるまうという悪い意味でもあるように感じます。

 実際に『広辞苑』で調べてみると、「社会的制約を無視して、気ままに行動するありさま」とあります。

 仏教語としての三昧には、「真理や仏名や浄土などに心を集中し、それを観察して思い念ずること」という意味があるようです。それは、三昧がサンスクリット語の「サマーディ」の訳語からきているからです。サマーディは「心を一か所にまとめて置くこと」という意味で、これが「心を一つの対象に集中し散乱させない」という、高度の精神状態に達する方法を意味するものとなりました。

 スポーツの世界では、無心で目の前のプレーに集中することを「ゾーン」と表現します。これは、過分な欲求は、かえって目的を遠ざけてしまうということから、無心の集中力だけが、目標をクリアにしていくことの近道だからです。

 目的を手に入れるために、過分な欲求を捨てるということは分かりましたが、では無心とはどういう状態のことなのでしょうか。

 それは、スポーツの世界にあるように、「自分を信じる」という気持ちで心を満たした状態と考えられます。

 このように、「無心」と「三昧」は表裏一体であり、無心であるからこそ達せられる境地が三昧なのでしょう。

 すべてを包み込む「無心の三昧」こそが、主人公である芋掘藤五郎の心の状態であったのではないかと思います。

まんが日本昔ばなし

いもほり長者ちょうじゃ
放送日: 昭和52年(1977年)04月30日
放送回: 第0134話(0082 Aパート)
語り: 常田富士男・(市原悦子)
出典: 表記なし
演出: 藤本四郎
文芸: 境のぶひろ
美術: 山守正一
作画: 上口照人
典型: 霊験譚れいげんたん致富譚ちふたん由来譚ゆらいたん
地域: 中部地方(石川県)


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最後に

 今回こんかいは、『いもほり長者ちょうじゃ』のあらすじと内容ないよう解説かいせつ感想かんそう、おすすめ絵本えほんなどをご紹介しょうかいしました。

 石川いしかわけんけんちょう所在しょざいである古都こと金沢かなざわ名称めいしょう由来ゆらい物語ものがたりでありますが、それと同時どうじに、成功せいこうをおさめたうえ、そのさきにあるだい成功せいこうしゃとなった主人公のいもほり藤五郎とうごろうが、最終さいしゅうてきもとめたものは、やはり「無心むしん」であったと『いもほり長者ちょうじゃ』はいています。ぜひれてみてください!

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